<αの行方> 第三話
<ナミダの行方>
小さな合図があった。風の音に微かに紛れる口笛の鋭い響き。私が耳に障る、不快な音だと言ってから、ユナはそれを合図に使った。確かに私にはかなり不快な音になるから、寝ていても気付ける。他の者は大して気になりはしない。言ってみれば犬笛みたいな物。
私は寝床から起き出すと、目をこすりながら近衛兵を見た。二人、部屋の隅に静かに控えている。小さなライトの傍で、一人は私の方向に目を向け、一人は何やら書き物をしている。
「どうかなさいましたか」
声をかけてきたので、私は淡く笑って見せた。
「なんでもないよ」
意外に頭がスッキリしていた。普通に動きそうだ。
「………」
黙ってベッドに座ったまま、小首をかしげて彼らを見る。すると、声をかけてくるのはわかっている。
「眠れませんか?」
と。
「ん、今日は何か気になってしまう」
「下がっていましょうか?」
「そうしてくれるか?」
彼らは快く頷く。時々、そう言って部屋から近衛兵を出していた事はある。
「あ、後三十分したら交代だろう? 帰ってていいよ」
「いえ。外にいます」
「律義だねぇ」
思わず苦笑すると、当然ですよと二人は明るく笑う。
そして、部屋を出ていく。
私はそのままベッドから出ると上着を羽織り、軽く髪を整えて窓に寄った。OKの目印に、カーテンではなくブラインドにして、白い表面ではなく、青に塗っ てある裏面を外に見えるようにした。そして防音の効果のある布地のシャッターをドア、壁、等々、設置してある全てを引き降ろした。これで会話は部屋の外に は漏れない。
しばらくすると、隠し扉が開く微かなきしみ。クローゼットの中に扉が作ってある。次いで、クローゼットが開く。
ひょこりと頭を出したのがユナで、そして大きなスポーツバックと、もう一人居た事にぎょっとした。
おずおずと顔を上げる、リナ。
一年ぶりに見る、リナだ。
ユナの言っていた通り、ひどく痩せて、痣や傷が出来ていて――そんな事はどうでもいい。リナだ。本物だ。 色々めまぐるしく頭の中を言葉が回るのに反して、体も表情も動かなかった。
どうしていいかわからないのだろうか、私は…。
「すみません。様子を見に行くだけのつもりが、連れて帰ってきてしまいました」
ユナはそう言って私に頭を下げる。
「いや、私はこのことにはもう関係ないとふんでたけど、気になる事があったから君に見てもらうよう言っただけで…君がどうしようと、別に何も…」
ぽつぽつ言葉を出しながら、私はリナの頭を見つめていた。さらりとした肩までの髪。リナは俯いた。
「これから、どうするつもりで戻ってきた?」
そう問うても、リナは黙って床を見つめていた。もう彼女の戻るべき役職はない。新たに見つけねばならないが、それは困難だ。顔は知れているし、アルバイト 程度の事も出来ないだろう。逆に、軍部関係にはもう近づけない。解雇処分になっているからだ。私がうまく取り持つのも、今の状況では難しい。彼女が勝手に やったことだ。それをわかっているだろうに。戻ってこない方が、本当はよっぽど彼女のためだったのに。
だから、会いたいとかいう幼稚な感情ひとつだけで会うのも、見つかったからと言っても連れ戻す事もしなかった。
「王、気になる事とは?」
ユナが、言葉を挟むのを遠慮しながら、それでも聞きたくて仕方ないというようにそう言った。
「ひどく痩せていた、それだけだよ」
あまりにも痩せ方が極端だと。その言葉を聞いて、ふと、リナの居る町が南西の、かつて歓楽街として栄えた――忌まわしい麻薬の出まわった町だと思い出した。
その麻薬を使っているんじゃないかと。
それも、「私のため」に。
「王」
す、と顔を上げて、呟くようにリナが言った。
「この、バックを」
リナはスポーツバックを床にドシリと置き、開けた。中には閉じられたレポート用紙が束になっていた。それを一通り取り出すと、瓶や、ビニール袋を持ち上げ ては床に並べた。ある瓶には緑色の液体、ある瓶には黒い粉末、針状の物、緑のゼリー状の物体。ビニール袋にもゼリー状の物体があった。
「――『ヒクリ』、だね」
言った私をはっと見上げて、
「知ってたの」
リナの驚いた目を見つめ、頷く。
「昔あの町で出まわって、大変な事件が起った事は知っているね?」
リナと、そしてユナを見た。リナは知っていたらしかったが、ユナは今気付いたという顔をした。
「ずっとそれを調べていたのか」
リナは頷く。
「カナラが、サボテンから抽出したという薬を使ったから、気になっていたの。どこに行こうかと思った時、どうせなら、それを調べて、それに関する情報をつ かめたらと思って。サボテンから抽出された薬が使われた事は私たちしか知らないし。この辺りでは手に入らない成分を、わずか十三の、生活を拘束されている に近い王女がどうやって手に入れたのかと」
「私も、調べなくてはと気になっていたが。ほとんど城から出る機会もないしね」
言うと、ユナは、
「私に言って下さればよかったのに」
「大変な仕事になってしまう。君にはそばに居て欲しいしね」
「…王」
ユナは、はにかむように俯いた。
彼女のレポートは完璧だった。
今も、昔と同じ種類のサボテンから作っている。精製技術は比べ物にならない。名は、ヒクリ。
カナラが使っていた物は、製品として売られていたそのままのものだった。針状に成分を固め、血管に入れてしまうか砕いて飲むかして、徐々に溶けて効いてくるのを待つ。
ゼリー状の物はそのまま食べる。
極彩色の幻覚を見る、現実逃避の夢の薬。依存性はあるが、現代の物は中毒にはなり難い。
成分もきちんと調べられていた。
そして、分布範囲や使用率も。
「よくこれだけ調べられましたね」
感心して声を上げるユナに、苦笑を返すリナ。関心ついでにユナは、
「これだけ調べようと思ったら、自ら作るとか売るとかして情報を集めないと……」
は、とリナを見つめるユナ。
「もしかして、部隊長はその本拠地に? あいつらがヒクリを作って、売ってるんですかっ?」
リナは苦く笑う。
「馬鹿な事を! なんで、そんな…っ」
言葉につまったユナ。
「もぅ、怒らないでよ」
「怒りますよ!」
そして私を見た。同意を求め、加勢しろという意味だろう。私はユナに言った。
「子供じゃないんだから。ほっとけばいい」
「え…」
「そんな事をしても、部隊長の座に居ない限り、何にもならない事を解っているんだろうから」
ユナとリナの顔色が変わった。私が優しい言葉をかけると思っていただろうから、この反応は当然か。ユナは特に、連れて帰りさえすれば私がリナを何とか救うと思っていたんだろう。「愛している人」に優しくするのは当然だと。…確かに、そうだけど。
「そんな、言い方なさらなくても…」
「言い方? 極力感情を押さえた平坦な言い方をしてるつもりだが」
リナの視線は床の上を行ったり来たりしていた。ここにいるべきじゃない、帰って来るべきじゃなかったと、そう思っているんだろう。私にまだ愛されている と、己惚れていたから戻ってこられたんだ。そうでなければ、戻ってきたとしてもまず謝るだろう? 自分のした成果を認めてもらおうと、まだ役に立つのだと 見せているだけじゃないか。必要とされる事が当然のように。
「何でそんな…」
ユナは連れて帰った手前、どうにかこの場を丸く治めておきたいだろう。彼も私がまだリナを想っていて、受け入れると思って疑っていなかった。私はそんなにいい奴じゃない。
私は無表情で彼らを見ていただけだった。
いつでもへらへら笑っていても、俺にだって感情はある。王となるよう育てられたロボットみたいに思わないでくれ。
それを解ってくれたのが、リナじゃなかったのか。
だから、一緒にいて安らげた。安心できた。なのに。お前は…。
「父上、いいかげんにしたら? 子供みたいよ」
無駄のない動きで、そう言いながらクローゼットから出てきたのはカナラだった。カナラはパジャマにしている白く、丈の長いワンピースでリナの前に立った。もう十四になっている。長い髪はそのまま垂らしている。
「八つ当たりなのよ。あなたを愛していたのに、何も言わないで一人で勝手にいなくなったから。傷ついたのよ。それなりに。苦しんだのはあなただけじゃないのよ。わかるでしょ?」
「カナラ」
ぼんやり見上げて、リナは呟いた。
「それにひょっこり帰ってきて、さも父上が歓迎するのが当たり前みたいなあなたたちの態度。ひどいわ。怒って当然よ」
私はカナラの腕を掴み、強引にこっちを向かせた。頬を殴りたい気持ちだった。が、できなかった。
子供に、これほど見透かされていたとは。
あんまりはっきり言われて、図星でかっとなった自分が恥ずかしい。
「カナラ」
しゃがんで、下からカナラを見上げた。
「お前から何も言わないで欲しかった」
言うと、カナラは私の首に抱きついた。
「…ごめんなさい、でしゃばって。でも父上かわいそうで。――怒らないで」
私は肉の薄いカナラの背を撫でると、立ち上がった。まだ背の伸びきっていないカナラを抱き上げる。
「悪いが、部屋に戻ってくれるか?」
小さく、頷く。私はクローゼットの前まで移動し、カナラを降ろすと見送った。隠し扉の向こうは地下までの道があり、地下からまたいくつかの通路を渡って誰 もが知っている場所に出られる。ここに来るのは結構骨が折れる。ドアの向こうに行きながら、カナラは不安げに一度振り向いた。私はわざとらしいが、笑顔を 作って手を振った。
何も言えない二人は、ただそこにいた。私から何か言ってやれば、すぐにまた歯車は動き出す。それが、解っているけれど。
私が何か言って、それで事態がこの二人にとってうまく回ったとして、それで、なんだ?
私はこのどうしようもない悔しさを抱えたまま、二人に笑顔を送らなければならないのか?
そしてまた苦しまなければならないのか?
――ばかばかしい。
「ごめんなさい」
涙の交ざった声だった。リナだ。
「ごめんなさいっ。私、どうしよう…ひどいこと、ごめんなさい」
許してもらえると思うから謝るのか。それとも、許してもらえなくても謝りたいから謝るのか。
見ると、面白いほどぼろぼろと泣きながらごめんなさいを繰り返している。
「それ以上泣くな」
「ごめんなさい…」
えぐえぐと泣きながら、リナはよろよろ歩き、そのまま隠し扉に近づいた。
「部隊長、どこに行くんですか」
振り向きもしないで、扉の向こうへ行く。――どこへ行く気だ。城を含め、豹変したお前がいきなり現れたら大事件じゃないか。
追いかけようとするユナを止めた。
「世話の焼ける…」
思わずそう呟いた。隠し扉を開く。
カツカツと階段を降りる足音を追った。リナの腕を捕らえる。びくりと、歩みを止める。
「どこへ行く気だ。ここで見つかる方がまずいだろう」
言うと、顔を伏せたまま黙っている。しゃくりあげて、まだ泣いている。
「ほら、来い」
首を振る。いやだと言う。
「おいで」
「だめ。私戻る」
「どこに」
つい荒い口調になる。リナはびくりと私の顔を窺う。
「ここに帰ってくるべきじゃなかったの。戻る」
「いい加減にしろ」
「だって…」
「言う事を聞け!」
両腕を掴んで一度強く揺すっていた。リナは脅えた表情。
「本気で、怒ってる…」
「当たり前だ!」
「ごめんなさい」
「ったく」
私はリナの腕を掴んで階段を登り始めた。
「ごめんなさい」
「もういいから」
「ごめん」
「いいって」
「……」
リナは黙ってついていた。
「…戻るって、黙って戻らせられるわけないだろう。それにもう外は明るいのに、城の外で見つかって、後どうする気なんだ? 落ち着いて考えなければ何もうまく行かない」
「放っておいてくれたらいい。後は何とでもする」
「放っておけるわけないだろう! どれだけ困らせるんだ!」
リナの腕を持つ手に力を込めた。――想っているのに、放っておけるわけない。
それからリナは黙ってついてきた。
「怒って、すまない」
部屋に戻る前に、そう言った。リナはただ横に首を振った。
まるで、子どものケンカだ。つまらない。
思うとふっと笑ってしまった。リナはその顔を見て不思議そうに首をかしげた。
3・えんど
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