我が輩はゴキブリである オリジナル版
我が輩はゴキブリである。種類はチャバネ、名前は……あるわけがない。
我が輩は、東京は田園調布のあるお宅の台所に居候している。生まれたときから母親の顔さえ知らず、孤独に育ってきた。食事をするにも、寝るにも、飛ぶに も、常に一人であった。しかし、つい最近我が輩は、心のオアシスを見つけた。居候しているこの家のマダムである。マダムは、我が輩がそーっと台所の陰から 姿を現せば、引っ切り無しに歓声を上げてくれる。我が輩はあの熟した色っぽい叫びの様な歓声が好きでたまらない。この前なんかは、リクエストにお答えし て、この扁平で茶褐色の二枚の羽根をはばたかせ、マダムの目前を飛翔してみせたら、感激のあまりに、マダムは気絶して床にぶっ倒れてしまった。速攻でイカ せてしまった我が輩は、罪なゴキブリであった。しかしこの後が大変であった。この家の主が新聞を持って、追いかけてきたのであった。あの時の主の目は本気 と書いてマジであった。きっと、マダムをイカせてしまった我が輩に嫉妬したのであったのだろう。いや、確かに、我が輩も悪戯が過ぎたかもしれない。主には 悪いことをした。だが、男の嫉妬はいけない。男は何時でも冷静沈着でないといけない。そうでないと、いつまでたっても我が輩のように美しく長く先は 柳のように枝垂れた触角は生えてこないぞ。天辺に一本だけ、さびしく儚げに生やしているだけであるぞ。
我が輩は、もっと世界を知ろうと、三泊四日で、旅に出たこともあった。台所だけでは、井の中の蛙だからだ。目標も荷物もなく、ただ前にだけ進む。我が輩 らしい旅であった。歩き出して少しすると、やはり今までに見たこともない未知の物体に遭遇した。その風景に、我が輩はただただ目を奪われるばかりだった。 一番感銘を受けたものが、不思議な箱だった。なんと、その中では人が動いていたのだ。かなりお約束級のネタだが、そのへんは許してほしい。あれには、開い た口が閉まらなかった。我が輩は、後ろに誰かいるのではないかと、疑いの念を持ったので、調べるべく後ろへまわった。すると、そこには人間の代わりに、お いしそうなダンゴが置かれていたのだった。その時は、まだお腹の方は減っていなかったので、場所だけを確認し、またくるぞ、とダンゴに声をかけ、そこを後 にした。それから、旅を続けていると、新たな同志も見つけたのだった。しかもその同志は、自分の家をちゃんと持っていたのだった。しかし、その家は、手抜 き工事が台風にでもあったかのように、物騒なものだった。屋根はあれども、玄関は扉がない。窓にはガラスがはめてないといった、泥棒さんどうぞお 入りください状態だった。初対面だが、我が輩はその家の状態について注意しようと、同志に声をかけた。しかしまったく返事がなかった。きっと寝ていたのだ ろう。まさか、他ゴキブリ様の家に断りもなく入るのもいけなく、旅も急ぎたくあったので、我が輩は仕方なく、その場所を後にした。しかし自分の家とは本当 によいものだ。あの同志のように死んだように眠ることができるのだからな。我が輩もいつか家を持ちたいものだ。ただし、扉や窓はちゃんとついた3LDKぐ らいの家がな。
旅をして二日目のことだった。我が輩は、生まれて初めて庭というものに足を踏み入れた。我が輩はあまりの感動に涙が頬を伝ったと同時に、神にゴキブリで あることを感謝した。すべてが初めてだった。空・風・雲、この時ほど旅に出てよかったと感じたことはなかった。その景色に見とれていること数時間。やがて 夜というものが訪れた。青かった空は、漆黒の闇を纏い、星々が瞬き始めた。自分がゴキブリであることを忘れてしまいそうになるほど、我が輩は、風景に溶け 込んでいた。そんな時を過ごしていると、我が輩は、庭の草むらの中から、美しい調べが聞こえてくるのに気づいた。その奏では、時にはか細く高く、空気を振 動されるように、我が輩の耳に届いた。我が輩は、その音色の源を知りたいという、好奇心に駆られて、いても立ってもいられなくなり、草むらの中を、音色目 掛けて、カサカサと歩き始めた。草をかき分け、一歩一歩とまた前進する。時折り見上げる夜空に、草が掛かり、その間から、星の輝きが見えることに気づき、 その美しさに見とれながらも、確実に源に近づいていた。そして、目の前を覆う草をわきへやると、だだっ広い場所に出た。その場所はどうやら水たま りが干上がりできた広場のようだった。とその広場のちょうど真ん中に、その美しき調べを奏でる源を見つけた。それは蟋蟀(こおろぎ)だった。我が輩の見た ところ、その蟋蟀が、二枚の羽根を擦り合わせ、その調べを奏でているようだった。彼を見たところ、我が輩と姿・形がよく似ていることに気づき、我が輩に も、あの調べが奏でられないかと羽根を擦り合わせてみた。しかし、これがまた不気味な音色をたててしまい、鳥肌が立ってしまった。ふと蟋蟀の方に目をやる と、蟋蟀は泡をふいて倒れてしまっていた。どうやら我が輩のせいのようだった。もう金輪際こんなバカなまねはすまいと思った。我が輩の旅は、こんな波瀾万 丈で幕を降りた。我が輩は、世界の広さ、雄大さ、温もりを感じた。その眺めその眺めに、我が輩は、瞳・心を奪われ、幼きころの様にその風景を見つめていた ことは間違いなかった。我が輩は、この旅は本当にいいものだと思った。それと同時に我が輩の旅のテーマは、発見・探求だということが、暗黙の内に理解でき た。
旅を終えた我が輩に、また平穏な生活が戻ってきた。キッチンを徘徊し、飛び回り、時にはマダムを喜ばせる平穏な日々が。だがしかし、その平穏もそう長く は続かなかった。我が輩の住み家に、もう一匹のゴキブリが現れたのだった。ヤツは、我が輩よりも一まわりも大きく。筋肉を全てに蓄え、自らを「ゴキブリ エール二世」と名のった。ヤツいわく、親父が別にゴキブリエールではないのに、あえて二世とあえて名のっていることがポイントだという。ゴキブリのくせ に、自分に名前を付けること自体ばかばかしいのに、二世と名のるヤツに、我が輩は、触角さえ向けたくなかった。我が輩は、このキッチンを、縄張りにした覚 えはないので、ヤツと共同で使ってもいいと思っていたのだが、ヤツは違った。ヤツにとって我が輩は、邪魔の何者でもなかった。ヤツはまず我が輩に、ここか ら消えるように忠告してきた。しかし、我が輩にもプライドというものがあった。と言うことで、我が輩と、ゴキブリエール二世は、このキッチンをかけ闘うこ とになった。体格だけを見れば勝ち負けは一目瞭然であった。だが我が輩には、何者にもない頭脳を持ってたのだ。力がない分、頭でカバーというわけだ。 決闘は一週間後、深夜、このキッチンでとなった。我が輩はその一週間、ヤツを倒すために、あらゆる方法を考えた。中には少々汚い方法もあるが、それは許し てほしい。そして決闘の日は来た。時計の針が午前一時を指すころ、我が輩とゴキブリエール二世はこのキッチンに現れた。何処から来たのか観客たちもたくさ んいた。照れ屋な我が輩には少し不利な状況だった。ヤツは自分を観客に目一杯アピールしていた。闘いの時は来た。ヤツと闘ったことのあるゴキブリに、右真 ん中足ブローに気をつけろと言われたのを我が輩はおぼえていた。自分の強さをさらに見せるように、必要以上にそのブローを打ってくる。だがその防御は完璧 だった。我が輩は全ての足に、アルミを何十にもまきつけ、いわゆる盾をつくったのだ。決闘というだけで、物を使ってはいけないとは一言も言ってなかったの で、我が輩はあらゆる武器をしこんでいた。ヤツの方は、肉弾戦オンリーのつもりのようだ。というより、物を使うという行為は、あのような筋肉馬鹿には無理 というものなのであったのだろう。まず我が輩はヤツの背後にまわり込み、陰に隠しておいたセロハンテープを取り出し、ヤツの背中に張りつけた。そう してまずヤツの飛行能力を奪った。しかしヤツもそんなことはおかまいなしに攻撃をしかけてくる。さすがに我が輩の腕も痛くなってきた。我が輩はたまらず飛 んで炊事場の方へ逃げた。ヤツも登って追ってくる。次に我が輩は、炊事場の、テーブル拭きの下に隠しておいたサランラップの切れ端を取り出し、ヤツ目掛け て覆せてやった。さすがのヤツも身動きがとれなくなり、床に倒れふしてしまった。ヤツがもがいているすきに、今度は、冷蔵庫の陰に隠しておいた、ミルク カップのカラをかぶり、ヤツがラップを取りはらい、立ち上がったところを、我が輩は飛び上がり、必殺フライングゴキブリアタックをくらわせてやった。そし て、ヤツから初めてのダウンを奪った。カウント5でヤツは、ゆっくり、しかし確実に立ち上がった。すかさず我が輩は、ゴミ箱の中から竹ぐしを引っぱり出 し、ヤツを突き始めた。後ろへ後ろへ逃げるヤツを、しつこく突きながら、我が輩の思惑通り、ヤツを壁ぎわへと追いつめた。速攻で我が輩は、わきに置いてお いたホッチキスの弾でヤツの首もとに、ヤツにギブアップするように言った。ヤツもなかなかギブアップを宣言しようとしない。我が輩はなおも言い続けてい ると、キッチンの照明がいきなり点灯した。主だ!このさわぎで主が起きてきたのだ。主は、手にゴキジェットを持っていた。観客はゴキジェットによってどん どん倒されてゆく。我が輩は、ゴキブリエール二世を逃がそうとホッチキスの弾をはずそうとした。だがこれがなかなかはずれない。するとそこに、何かの液体 がふりかけられた。苦しい、目がかすむ。ヤツの苦しむ姿もかすむ目に映った。あお向けになった我が輩の目に、主の持っていたもう一つの物が映った。ジョイ だった。台所用洗剤だった。せめて我が輩は、チャレンジジョイよりもママレモンの方がよかったと思いながら、命の瞼を閉じた……。
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