我が輩はゴキブリである リメイク版
一
我が輩はゴキブリである。名前はまだ無い。種類はチャバネ・・・、あなた方がよく台所で発見されるヤツではなく、チャーミングな茶光りした、少し幼く見える、それがわが輩達である。
我が輩は、人間が言う東京、その中でも閑静ではあるが豪邸と証せられる住宅街、そんなところのとある一軒のお宅に居候させてもらっているわけだ。
魂の泉を離れ歩き始めた頃から、血肉を分けた親兄弟の触覚すら知らずに生きながらえてきた。どんな時も一匹、台所あたりを飛び回る時すらそうであった。まさに、Oh,ロンリーフライング!である。
あまりの寂しさに耐え切れず、何度となく枕を濡らしたりもした。一時期、気の合う仲間もいたが、何時の間にかそいつらは、ゴキブリホイホイの中であった。何にしろ、我が輩の渇いた心の空虚を埋めてくれるものはなかったのである。
そんな錆付いた心を、窓辺にもたれて風にさらしていたある日のこと、我が輩は、我が輩の心に潤いを、癒しの雫をもたらせてくれる一人の女性と出会った。
心の臓はドッキンバッキン、鼻の下ビロ~ン、まさにこれがフォーリンラブであったのである。
その女性というのが、居候させてもらっているこのお宅のマダムだったのだ。
胸を締め付けられる想い、・・・っこれが恋、これが恋なのね と、我が輩は何故かオトメティックに思った。
我が輩はあの方を想うだけでトキメキ、鼻息が少々荒くなるのであった。
初恋・・・、幼いころの衝動のようにそれは我が輩の体内を駆け巡り、瞳に純粋な輝きを纏わせるのだ。
こんなにまでも我が輩の全てを虜にするこの恋にも、残念ながら一つ障害があったのである。
それはマダムが、・・・マダムが人妻だということだったのだ!
・・・恋愛に障害は付き物。
理解しているつもりではあったが、人妻というのはやはりかなり痛いものがあった。言わば人のものを奪うのだ。これは争いを避けて通れそうもない。しかし愛してしまったからには仕方がない。我が輩にはやるしかなかった。我が輩の初恋を実らせる為に。
我が輩はいつものように、台所に立つマダムを眺めるために物陰に身を潜めていた。人の間ではそれを<ストーカー>と呼ぶらしいが、我が輩はゴキブリなので全く関係などない。
・・・その髪に、その肌に触れたい。その艶やかな口唇で我が輩の名を優しく呼んでほしい・・っ!! そんなことを思ってはため息を吐くばかりであった。そしてよくよく考えてみると我が輩には名前がないので呼んでもらえるはずもなかった。
見つめているだけなら誰にでも出来る。しかしそれだけではここから先に進むことは出来ない。我が輩は決心を堅く固めると、物陰から颯爽と飛び出した! すると我が輩は”ぷちっ!!”といういい音を立ててマダムに踏まれてしまったのだ・・・。
気が付くとそこはスリッパの裏だった。床と我が輩にしっかりと張りついたスリッパを触覚で探り、このスリッパを履いていたはずのマダムの姿がすでに台所にないことを知って、我が輩はやっと状況を把握した。
そうである、我が輩はマダムに告ろうとして物陰から出た拍子にマダムに踏まれてしまったのだ。
・・・っああ、マダムに踏まれる快感・・・!!
こんなことを考える我が輩はもしかしてMだろうか? そんな馬鹿なことを考えているうちにいつまたマダムが戻ってきて踏まれるかも知れないので、我が輩はスリッパの裏から剥がれると千鳥足でその場を去ったのである。
我が輩はねぐらに戻るといろいろと考えめぐらせ始めた。
・・・なんとこの想いを告げようか、どのようにこの想いを告げようか。
あの方の前に立つと言葉一つすら出る気がしない(元々出ないのだが。)我が輩は自分がこんなにもシャイでピュアだとは知らなかった。我が輩は、こんな自分がちょっぴり好きになりそうだ
うーん・・・、それなら恋文にしても悪くないのでは? と思った。
一行一行、我が輩のこの沸き上がる様な想いをあの方の心深くに届くよう、書き綴るのだ。そして、・・・やがて一通の手紙が送られてくるのだ。それは我が輩宛のマダムからの返事で・・・。
キャ~~~~~~~ッ
・・・だが我が輩は、いやそもそもゴキブリは喋ることはおろか字なんか書けるわけもなく・・・。では何故我が輩の言葉がこのように綴られているのかは作者の都合なので気にしないでほしい。
あれこれ悩んだ挙げ句、我が輩は一つの答えを導きだしたのだ。
――― あの方を我が輩に惚れさそう!
これしかなかった。しかしこうすることによって我が輩達は両想いとなり、晴れて結ばれることが出来るのだ!
我が輩はそう思うと居ても立っても居られず、我が輩の頭の中に存在する”ある作戦”を実行するべく、近くの窓から、秋の外界へと飛び出していったのだ。
秋の空には茜雲、大地には曼珠沙華がよく似合っている。風に揺れる枝葉は、秋らしい寂しくも優しい旋律を奏でている。その奏では虫達の心を震わせ、やがて夜の草叢は虫達の小さなコンサートホールとなるのだ。
・・・などといかにも詩人風の台詞を並べ、少し気取って見せたのは、草叢で合唱を楽しむ虫達に会う為であった。
彼らは美しい風景、美しい調べを好み、それを愛するものを”仲間”とするからである。
何故我が輩が彼らに会いに来たのか? そこに我が輩の”ある作戦”の重要なことが隠されているのである。
我が輩は一度だけ、マダムが彼らの合唱に聞き惚れていたのを思い出したのだ。つまり我が輩は彼らからその奏でを学び、そして 我が輩がマダムの前でこの 想いを旋律とし、奏でたとしよう。きっとマダムは目をハートマークにし、我が輩にハラホロヒレハレとなるはずである。フムフム、我が輩の作戦は完璧であ る。
闇の衣が空を覆い夜を纏う頃、彼らは優しい月の光の射す草叢で、思わず心奪われそうな美しい音色を奏で始めた。
我が輩はまるで、「弟子にしてください! 弟子にしてもらえるまで私はここを梃子でも動きません!!」くらいの気迫で彼らに歩み寄っていった。
彼らの傍まで近付くと彼らは我が輩の存在に気付き、その奏でを止めた。彼らの”異”を見つめる視線が我が輩に突きささる。
ここで受け入れてくれなければ我が輩の作戦は成功しない。なんとかして”仲間”として受け入れてもらわなければ・・・
そしてそんな熱い気持ちを燃えたぎらせていると、彼らの中から一匹、我が輩に近寄ってきた。その者は我が輩の目の前に来ると、我が輩をじっくりと舐め回 すように観察をし始めた。視線を止めては頷き、また視線を止めては首を傾げ、そして一通り我が輩を観察し終わると次は我が輩の目をジッと見つめた。
何だか余りにも強く見つめられるので、我が輩はちょっと顔を赤らめてしまった。
どのくらいだったであろうか、我が輩とその者とのスタンスはまだ続いている。少し額に汗が滲んだ。と、その時、「お帰りあんちゃんっ!」ばりにその者は我が輩を抱擁してきた。後にいた彼らは、吉本新喜劇並みにズッコケていた。
その者に言わせると、我が輩の身体が放つ光沢がまさに”美”であり、”芸術”なのだと言う。ならば何故我が輩達が人間達に嫌われるのかを教えてほしいものだ。どこでも芸術を語るやつのことは我が輩には到底理解不能である。
美を好む彼らにとって、美を追究するもの、美を纏うものなど、美を源とする者全てを仲間とするのだという。
我が輩は”美を語るもの”としてやってきたのだが、どうやらその出番はなかったようである。
我が輩の願いは彼らに快く受け入れてもらうことが出来た。彼らにとって我が輩の行為は”美の追究”であるのだという。美を追究する我が輩に彼らは喜んで力を貸してくれるという。
我が輩の見たところ、彼らの合唱は”自らの二枚の羽を擦り合わせる”という一見とても簡単そうなものであった。しかし、我が輩の遺伝子にはそんな行動パターンは組み込まれてはいないのか、音を出すことはおろか、まともに羽を擦り合わすことすら儘ならない。
見た目はこんなに似ていても、種類が違うだけで我が輩の求めるものがこんなにも遠いものなのかっ! 我が輩の中に劣等感が込み上げてくる。
ふと夜空を見上げると都合良く、愛しいマダムの幻影が「大丈夫、あなたはやれば出来る人、頑張って!」と応援してくれる。・・・我が輩は死ぬほど単純だ。バカみたいにやる気が込み上げてきたのだ。
ラブラブファイヤー! な我が輩は、渾身の力を二枚の羽に込めて、羽が擦り合うよう動かした。
すると我が輩の羽は荒波の間に立つ二人の海の男兄弟のように重なり合った!
――― 我が輩の愛の力に勝るもの無し!!
と、ニヒルに思った瞬間、我が輩の羽からしずかちゃんが弾くバイオリン並みの不協和音が辺りに放たれた。我が輩はその余りの悲惨さに羽を止めるしかなかった。
周りを見てみると、きっと我が輩のせいだろう、彼らは泡を吹いて倒れていた。辛うじて立っていた最後の一匹も、我が輩に、
「・・・ジャイアン・・・ッ」
とだけ言い残して倒れてしまった。
数日が過ぎていた。不協和音しか奏でられなかった我が輩の羽も、彼らの熱心な指導により、少しずつだが確実に美しき調べを奏でられるようになってきたのである。
我が輩の成長ぶりに彼らも驚きを隠せなかったようである。時には彼らから、スタンディングオベーションが起こることもあった。
・・・そしてとうとう、彼らの元から去る時がやってきたのである。はじめは不純な動機とはいえ、それを忘れてしまうくらい我が輩は彼らから学べるものを全て学んだ。
彼らが知っていたかどうかは知らないが、彼らは我が輩に”雌を口説く奏で”を伝授してくれていたのである。何処へ行ってもやはり雄はドスケベである。
我が輩は彼らに別れを告げ、我が学び舎から立ち去ったのである。
そして、我が輩は戻ってきた。我が輩と彼らとの熱き青春の日々を無にせんが為に! 早速我が輩は台所のいつもの位置で、マダムが現れるのを待った。
――― 今日こそは見つめているだけでは終わらない、マダムのハートをがっちり鷲掴みにするのだ!
様々な感情が入り混じって、我が輩の脳内アドレナリン最大分泌量に達し、興奮度は体内バロメーターを振り切ってしまいそうな勢いだった。
我が輩は少しでも落ち着くため、ゴキブリにもかかわらず、手のひらに「人」の字を三回書いて飲み込み、、「こんなんで落ち着くかいっ!」と自分に突っ込みをいれてしまった。
そんなことをやっている時、麗しのマダムが台所へとやってきたのだ。さぁ、告白タイムである。我が輩は颯爽とマダムの眼前に姿を現した。
我が輩はお世話になった彼らのことを思い浮かべながら、二枚の羽を広げた。
そこへ、マダムの愛らしい悲鳴と共に、我が輩に何かの液体が飛んできたのである。「何だっ?!」と思う暇もなく、我が輩は苦しみ、目の霞みを感じた。
体の自由がきかなくなり、あえなく我が輩は仰向けに倒れてしまった。そして我が輩の霞む目に、我が輩に振りかけられたと思われるものが目に映った。
”ジョイ”だった。
マダムは我が輩に向かってそれを振りかけたのである。主婦の味方、台所の味方、高田○次推薦の”チャレンジジョイ”をだ。
我が輩は、せめてジョイよりも”手を繋ぎたくなるチャーミーグリーン”の方がよかったな・・・、と思いながら、重い命の目蓋を閉じたのである・・・。
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