声
6月19日、私は彼女に出会った。
彼女は美しく、きれいだった。梅雨のジトジトした季節。静かに降る雨の中で、彼女は歌っていた。びしょ濡れになった服は肌が透けて見え、雨で潤った髪は、滴を滴らせている。
艶やかな姿…顎のラインが綺麗なその横顔に、Tシャツがへばりついたその体に、静寂に響くその声に、私は魅入られていた。
耳が見える程に短い美しい黒髪は、彼女のすっきりとしたあごのラインを引き立てていた。うっすらと紅色をした唇。白く長く、しなやかな指。スラっとした細い足は、水を含んで重たそうなジーパンに包まれている。
美しい少女。
人を憎み、人に憎まれ、穢れを知り、憎悪を抱いてきた少女。
彼女の名は、下総游(しもふさゆう)。
01
「何してんの?こんなところで」
彼女がじっと立っていた私に気づき、こっちを向いたので訊いてみた。が、しばらく私を見たかと思えば、ぷいっと正面を向いてしまった。そしてまた歌を口ずさむ。
「風邪ひくよ?」
「別にひいてもいい」
私が隣に座りながらそう訊くと歌をやめ、ぼんやりと重たそうな雲を見上げながら答えた。歌声に劣りもせず、勝りもしない美しさがその声にはあった。
「何してたの?」
「歌ってたの。わかるでしょ?」
「どうして?」
彼女は私の方を向かず、正面を向いたまま、だるそうに話した。
「どうでもいいでしょ。あたしに構わないで」
立ち上がって去って行こうとする彼女の手を私は掴んだ。
「『構わないで』と言われると構いたくなるんだな」
冷たい目で私を見下ろす。そして何も言わずに私の手を振り払い、雨の中を駆けていった。
彼女の手は驚くほど冷たかった。恐らくそれは雨にうたれていた所為だろうと思うが、あんなに冷たくなるとは、一体いつから彼女は雨の中にいたのだろうと、疑問に思った。
私は彼女が去ってからもしばらくの間動かずにいた。彼女が歌っていた歌を反芻しながら…。
02
すべてがどうでもよかった。
生きているのが面倒臭くなった。
親はあたしを邪魔者扱いし、周りにいる人はあたしに目を向けようともしない。親と言ってもあたしの本当の親じゃない。どういった経緯であの二人のもとにあたしがいるのかはわからない。唯、本当の親じゃないという事だけは聞かされていた。
飯を食わせてやってるんだ、と言ってはあたしをはたき、金を払ってやってるんだ、と言ってはあたしを蹴り飛ばした。体に傷の出来ない日などなく、生傷が絶えなかった。
満身創痍。
この言葉があたしにピッタリ当てはまる。
そんな環境で育った所為か、人を信じるどころか憎んできた。これからもそうだろう。これからも人を憎んで生きていくだろう。
そう思っていた。あの人に出会うまでは。
あの日、あたしは友達の家に泊まった後、家に帰るのが嫌でふらふらとその辺を歩いていた。そうしたら今まで堪えていた、どんよりとした空から雨が降ってきた。もちろんあたしは傘なんか持っていない。だからといって雨宿りするのも面倒臭かったから、そのまま歩き続けた。
中途半端に熱せられたアスファルトが、雨で一気に冷やされて独特の蒸し暑さが漂う。植物にとっては恵みの雨。雨は嫌いじゃなかったけど、何故かあの日はあんまりいい気分ではなかった。
雨があたしの体に沁みて、傷が少し痛かった。
フラフラと歩いていたら、人通りの滅多に無い細く、暗い、静かな道に出た。服が水を吸ってかなり重くなり、その所為で疲れていたのでそこにしゃがみこんだ。
雨の音だけが耳に入ってきた。
あたしは耳に入ってくる静かな音が好きだった。雨の音を聞いていると歌いたくなる。あたしが好きなのは、雨の音と歌と煙草だけ。ふと、煙草がジーパンの後 ろポケットに入っているのを思い出したけど、すでに遅かった。まだ十数本残っていたのに、雨でびしょびしょ。とても吸える状態ではなかった。
煙草が駄目になったから、歌を口ずさみ始めた。
静寂の中に、あたしの声が響く。
ここにいたらゆっくりと眠れそうだなと、思った。家なんかでゆっくり落ち着いて寝てなんかいられない。たとえ眠れても、その眠りは浅く、二、三時間ごとに 目を覚ましてしまう。だから頭がすっきりとする朝なんて今まで一度もない。授業がだるくて保健室で寝ていても同じ。どこにいても変わらない。よく眠れない 日が続いた所為で、体に疲れが溜まり、食べ物が喉を通らなくなり、しまいにはガリガリに痩せてしまった。
このままここで、いっその事眠ってしまおうかと思った。
そう思っていたら、あたしの隣に人が立っていた。この道には建物はあるものの、住人はいない。しゃべり声のない暗い場所。そんなところに来るなんて一体何の用があるのだろうか。
すぐに立ち去るだろうと思ってそのまま歌っていたけど、一向にその気配がなかったから、あたしは口を噤み、その人の顔を見た。
「何してんの?こんなところで」
声を掛けられたけど、あたしは無視して正面に向き直った。そして、また歌う。
「風邪ひくよ?」
風邪をひいたって、不治の病に罹ったって心配する人なんてあたしにはいない。そう思いながら「別にひいたっていい」と答えた。
何知らない人と喋ってるんだ、自分。と思ったけど、何故かその人の声を聞くと、その人に話しかけられると、口を開きたくなる。ゆったりと落ち着いた、子守唄の様な声。ふっと、力が抜ける。
少しウェーブがかった茶色い髪は、後ろで一つに結んであった。背は高く、スラっとした足。大人っぽく見えたけど、歳はあたしと然程変わりはなさそうに見えた。多分16歳ぐらい。
ぼんやりと雲を見上げていると、
「何してたの?」
と聞いてきた。疲れていたし、だるかったから適当に「歌ってた」と答えてやった。そうしたら更に「どうして?」と首を突っ込んできた。嫌気がさしたから立ち上がってどこかへ行こうとしたら手を掴んできた。
「構わないでって言われると構いたくなるんだな」
口の端を少し吊り上げながら言ってきたからムカついて、冷たい視線を送ってやった。また何かと訊いてこられるのが鬱陶しかったから、手を振り払って走って行った。
水を含んだ服が重たかった。
あの人と最初に出会ったのは、中3の6月19日。
そしてその後、2回目に出会ったのは、翌年の4月10日。
高校の入学式だった。
気持ちがいいほど空は晴れ渡り、暑くもなく寒くもない、春という季節。あたしは春が、四季の中で一番嫌いだった。春というだけで人は浮かれ、幸せそうな気分になるという。それがたまらなく気持ち悪くて、吐き気がした。
あたしたちが再び出会ったのはそんな季節。皆が皆浮かれていた、あたしの大嫌いな春だった。
「よ。そこのお嬢さん」
懐かしい声。ずっと聞きたいと思っていた、あの声。あたしは振り返った。
「ここの生徒?」
「そ。2年。あんたの1コ上」
にっこりと笑いながら答えたその人の声は、やっぱり落ち着く。鬱陶しいと思う反面、このままずっと聞いていたいと思う自分がいた。
4月。入学式。偶然にもあたしはあの人と同じ高校を選び、合格した。
「偶然だねぇ。あんたも…」
「あんたじゃない。あたしにもちゃんと名前はあるんだ。あたしは下総游」
相手の言葉を遮って、あたしは少し怒鳴り口調で言った。
「…ごめん。自分は上総。白石上総」
白石上総。あたしは出会って1年弱で、やっと名前を知った。
いや、お互いにか。
「で。下総さんは何組?」
「別にいいでしょ、そんな事」
またそのまま立ち去ろうとした。けれど、案の定引き止められた。
「教えてよ。これも何かの縁じゃない?」
「何であたしに構うの?」
「似てるから」
上総はじっと、あたしの目を見て言った。
「…誰と誰が?」
「下総さんと自分が」
「どこが?」
「精神面が」
訊いては答える、淡々とした会話。あたしは最初、上総の言っている意味がわからなかった。
「ヤニ、吸ってんだろ?」
耳元で囁かれ、ドキっとした。何故わかったんだろう…。
「ビンゴ。何でわかったんだって思った?」
「……」
ちょっとムカついた。あたしは何も答えずに踵を返した。何故か今回は手を掴んでこなかった。そのままずっと教室の方へ歩いて行くうちに、手を掴んでこなかったのが少し、寂しく感じた…。
03
彼女と再会した。
初めて会ったあの日、彼女とはまた会うことになるだろうと確信していた。根拠はない。でも何故かはっきりと『また出会う』と、思った。
そして私たちは再会した。
彼女が煙草を吸っていると気づいたのは…いや、気づいたと言うより、勘だった。多分吸っているだろうという勘。私自身がそうだったから。
本当に彼女と私は似ていた。見るからに春が嫌いなところも、毎日がだるいところも、全てがどうでもいいところなんて、そのままだった。もちろん、煙草も 吸っていた。体からニコチンが抜ければ吸い、煙草がなくなれば親の金を失敬して買いに行った。ただし、コンビニでは売ってもらえないので、自販機だったか ら1カートンは買えなかった。煙草以外に酒も飲んでいたけど、ヤクだけはしなかった。何度か周りの奴らに勧められたし、別に金にもあまり困っていなかった けど、絶対に手は出さなかった。
親はちゃんといた。血も繋がっていた。けど、1年に何度か、数えるぐらいしか顔を合わせなかった。仕事が忙しく、一人っ子だった私にはマンションを買い、月ごとに一定の金を貰うだけ。だから特に困ったことはなかったけど、何か物足りなさをいつも感じていた。
彼女も、毎日が退屈なのだろうと思った。
彼女は「あたしに構わないで」と言う。まぁ、人にからまれるのは気分のいいものじゃない。だけど、私は彼女に話しかけずにはいられないのだ。
大衆の中でも、私はたった一人だけ、彼女を見つける事が出来るだろう。現にあの入学式、人がごった返す中で彼女の後ろ姿を見つけ、何の躊躇いも無く声をかけた。そして彼女は振り向く。
あれからというもの、私は彼女の後ろをつけまわった。言っておくが、ストーカーではないので。何度も「構うな」と言われたが、そんな言葉は無視して彼女に構いまくった。
今思えば、何を考えて彼女に構っていたのだろうと思う。
彼女を改心させたい?
違う。彼女を助けたいとか、そんな偽善的な考えではなかった。そもそも私は誰かを救いたい、助けたいと思える程、人間出来ていない。
唯、彼女の声が聞きたかっただけなのかもしれない。
唯、彼女との接点が欲しかっただけなのかもしれない。
唯、彼女が好きだった。
私は、彼女だけに魅かれていた。下総游と言う、たった一人の美しい少女に。
入学式以来、お互いに言葉を交す内に私にも、彼女にも変化があった。
ただただ退屈だった学校生活が、楽しくなってきた。…と言っても楽しかったのは、彼女と話をしたりしていた時だけだったから、『学校生活が』という表現は正確ではない。
彼女は彼女で少しずつ、私から逃げようとはしなくなった。そして少しずつ、会話というものが成り立っていった。彼女の親の事、傷の事、彼女自身の事を、徐々に話してくれるようになった。
そして私はいつの間にか、彼女と一緒にこうして話が出来れば、唯それだけでいいと思うようになった。
私が知る中で、彼女が最も変化を見せたのは、『もう死んでしまいたい』と、そう、私に告げた時。
「どうして?」
ぼんやりと空を見上げる彼女に私は訊いた。
「…体が痛い」
今でも彼女は毎日、体に新しい傷を作って学校へ来る。さすがに顔には傷はなかったが、よく腕を擦ったり、腹部を擦っていた。
「生きているのが嫌になったのか?」
「うん…」
何の躊躇いもなく、そう答えた彼女に私は、初めて腹を立てた。
「だったら今すぐ死にな」
「え?」
目を見開いて、彼女の目が私を映す。
「もう死んでしまいたいんだろう?生きているのが嫌なんだろう?だったら今すぐ死ねばいい。前に言ってたよなぁ?『あたしなんか居ても居なくても同じ だ』って。その通りだよ。親はお前のことなんか、どうでもいいと思っている。周りの奴らはあんたに目を向けない。だったらあんたが消えても誰も気づかない し、誰も心配なんかしない」
「上総…何言って…」
構わず私は続けた。
「自殺なんて簡単だよ。首にナイフを当てて、スッと引けばいい。そうすれば首からどす黒い、濁った血がシャワーの様に出てくる。そのうち全身から血が抜けて、あんたの周りに紅い池が出来る。どう?ナイフが嫌なら、睡眠薬っつー手もある。痛みはないから楽に死ねるよ」
彼女はじっと私を見ていた。目を大きく見開きながら。
「首つりと溺死はやめておきな。汚物が出るから死体が汚れる。あんたにそんなのは似合わない。紅い血の池に浸かるか、何の傷もなく、綺麗に死ぬのがあんたには似合ってる」
彼女は私を見ながら泣いていた。静かに、泣いていた。
「游…。游、ごめん。嘘。あんたが死んでも誰も悲しまないなんて嘘」
「……っ誰…っ?」
「自分じゃ、ダメかな…?」
少し照れながら私は答えた。
「游、簡単に死にたいなんて言わないで。誰かが死んで、1人も涙を流さない奴って、そうそういないと思う。今は辛いかもしれない。これからだって、もっと 苦しいことがあるかもしれない。自分は、他人の事なんて理解出来ないけど、これだけは言える。游が死ねば、自分は悲しくなる。頑張れなんて言わない。でも 游には生きてて欲しい。心からそう思う自分が今、ここにいるんだ」
そう言った途端、彼女は感情を剥き出しにし、声を大にして泣いた。
私はそんな彼女を優しく抱きかかえ、髪を撫でた。
「愛しい游…泣かないで」
それから彼女は、私に心を開いてくれるようになった。
04
枷が外れたような気がした。
長い間、誰にも言ってもらったことのない言葉を、誰からも貰ったことのなかった言葉を、上総があたしにくれた。人の腕があんなに温かいなんて、初めて知った。
それからあたしは、上総に何もかもを話した。上総にだけは、心を開いていた。上総は、あたしが欲しいと思う言葉をくれると信じていたから。
そしてその通りだった。
ほかの人から聞いても、それは唯の偽善にしか聞こえないけれど、上総の言葉にはそれが全くなかった。以前に比べると、何もかもが楽になった気がする。食べ物もだんだん食べれる様になってきたし、少しずつだけれど、夜も眠れる様になった。
大切な人。
大好きな人。
世界で一番大切で、世界で一番愛おしい上総。
美しい声の持ち主。
幸せだった。相変わらずの毎日だったけれど、あたしは少なくとも幸せだと感じていた。上総の声を聞く毎日。
その声が途切れたのは、あたし達が出会ってちょうど2年経った、6月19日。
05
私たちが出会った日。あれから2年が経ち、同じく6月19日。
雨が降っていて、ジトジトしていた日。
理由は、私が游を壊してしまいそうだったから。日に日に游への想いが膨らみ、愛しさが募り、私自身が壊れ始めていた。私が壊れるのに抵抗はなかった。でもその後に、必ず游を壊すだろうという確信があった。
何があっても、游だけは壊してはいけない。どこかからか、そう聞こえてきた。
壊すつもりはない。だけどこのままでいれば、必ず游を壊すだろう。
ならば、自分自身を断ち切ればいい。
薬を手に取り出し、水で喉に流し込んだ。
06
上総が死んだ。
理由はわかるはずもなく、唯、届け物を渡しにマンションへ行くと、部屋に冷たくなって横たわっていた。
悲しみよりも、愛しさが込み上げてきた。
もう、あの声が聞けない…
周りを見回すと、テーブルの上に手紙があった。
《私の全てを。その美しき声に愛を》
上総は去った。
あたし一人を残して…
永遠なる上総。
彼女に、愛の唄を。
この喉が擦り切れ、声が枯れ果ててしまうまで……
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